ホワイトニングの利便性
私は感謝の言葉を患者さんからもらうたびに、以前ふつうに外科治療を行っていたころの「医者患者」の機械的な関係が変化し、互いに一人の人間として関わる温かいものになっていくことを感じていた。
病院を辞職しなければならなかったことが、ショックでなかったと言えばウソになる。 仮にも、一度は K 病院の副院長職にいて、院長の一歩手前と目されていた男だ。
しかし、医療の真実、治療の真実を自分なりに追究すればするほど、そういった世界からは遠ざかっていかざるをえない。 以前はたくさんいた、病院周辺の取り巻きも、誰もいなくなった。
だが、私には喜んでくれる患者さんがたくさんいる。 そしてなにより、「 HLA理論」によって導き出された、病気治癒という新しい希望がある。
自分に残されているのは、この新しい治療法を確立し、世に広め、医学の常識革命を行うことしかあるまい。 私は深くそう決意し、新しい一歩を踏み出していった。
「先生、東京でも診察していただけませんか?」 M 出版の H 君たちから、思いがけない話をもらったのは平成十二年の秋の終わりだった。 M出版では、出版部門とは別媒体で東京にクリニックを経営しており、そこでは漢方や鋪灸などの東洋医学系の治療も行っているという。
N温泉病院を辞職した私は、いってみれば「プー太郎」である。 一眉で風を切って歩いた外科医時代とは、一八○度違う境遇だ。
医者の集まりに顔を出しても、投げかけられる視線は冷たく、「先生も物好きだね」と声をかけられるのがせいぜいである。 製薬会社のかっての担当者など、見向きもしない。
みかねた妻が、私を自分の経営する医院に入れてくれた。 しかも、それまでは彼女が父から継いだ旧姓のまま「 M 医院」だったのを「 H 医院」と改名までしてくれたのだから、頭が上がらない。
また、新潟では、医者の間からも、「 HLA 理論」をもっと知りたいという声が聞かれるようになった。 これを希望に、妻の医院の片隅で、以前は看護師さんたちの休憩室だった三畳ほどの場所をもらって治療を続けていた。
冒頭の話は、そんな折に持ち上がったものだった。 東京には、私の治療や「 HLA 理論」に興味を持って集う、仲間の医師たちもいる!たくさんの患者さんが待ってくれている!そう思うと、いてもたってもいられず、東京行きを快諾した。
だが、妻の反応は芳しいものではなかった。 「東京に行くのは構わないけれども、週に一度はたいへんでしょう?体を壊したら元も子もないわ」もちろん、六十歳を越えた私の体を気遣っての配慮である。
けれどもその背後には、刺絡療法などというわけのわからない治療にとりつかれたばっかりに、順調な医者人生を棒にふり、さらには地元・新潟を離れてまでそれを追いかけようとする私への困惑もあっただろう。 「いい加減にしたら。
あなたはもっと冷静にならなければ」「やっと治せる医療が見つかったんだ。 やらんでどうする」こんな応酬が何度続いただろう。
このころは毎朝四時すぎに起きて患者さんのデータを整理、六時に朝食をとると七時前から朝一番の患者さんを迎えていた。 東京の診療所に行く日は、新潟を朝一番に出る新幹線に乗り、東京を終電間際の新幹線で出る。
前日も、翌日も新潟での治療は続けていた。 外科医をしていたころとは違って、自らの手で患者さんに針を指していく治療というのは、相当な体力を使う。
しかも、治療に見える患者さんはガンをはじめとした難病の方ばかりで、いろんな意味でものすごいエネルギーは必要だ。 くたびれないと言えば、ウソになる。
それにも関わらず、東京で「自律神経のバランスを整えれば病気は治せる」という志を持った医者仲間に囲まれ、皆でワイワイガヤガヤ議論をしながら治療ができるのは楽しかったし、治療の後、新幹線に乗るまでの合間に一杯やるのも明日への活力につながっていたと思う。 「やらんばならない」(新潟弁でやらなければならない、の意)というのが、当時から私の口癖となった。
「やらんばならない」東京の診療所には、薬に頼らない医療を目指す医師がどんどん集まるようになってきた。 N 大学の医学部を出てからF・喜多方の病院で産婦人科医を務めていたKさん。
「でも、私は H 先生とは違って」「しかし、この線はここで終わって」と言い訳が多い。 そこで私は「でもしか先生」と彼に命名し、ことあるごとに彼が「でも……」と始めると、「ほらまた、でもしか先生が出たぞ」などと言ってからかっていた。
治療後のささやかな酒席ともなれば、この「でもしか先生」をはじめ、皮層科出身の医師、神経内科出身の医師など、さまざまな医師たちと口角泡を飛ばして、これか産婦人科医ではあるが、ややぶきっちょな彼は当初、なかなか治療成果が上がらなかった。 私が、「もっと患者さんの体を真剣に見ろ、本気になれば体が教えてくれるんだから」と言うと、君という医師も来ていた。
彼に刺絡療法の話をすると、興味を持って乗ってきたのである。 「結局、いまの医学では治らない。
だから患者さんだって、治してくれる医者を求めて俺たちのところに来るんだ」「だから、 HLA 理論を証明するためにデータを出してください、先生」「データはあるじゃないか、どんどんよくなっていく患者さんがその証拠だろう」「だけど先生、私だって一生懸命やっているけど、なかなか先生みたいに患者さんがよくならないですよ」「うるさい、お前は気合が足りないんだ、気合が」「気合だとか、線が見えるとかだけじゃ、今の医学には相手にされないでしょう。 もっと万人が納得する形に持っていかないと」「とにかく、俺たちはやらんばならない。
医学はこれから変わるんだ」とまあ、こういった具合で話は出たり入ったりする。 最後に「やらんばならなどと言うのは、必ず私なのだが……。
週一日の東京通い、残り五日は新潟で治療、というペースが次第にでき上がっていった。 このころから、私の体重はめきめきと増えていった。
運動量が減り、その割りにお酒を飲むペースはまったく減らなかったためかもしれない。 もともと高めだった血糖値や血圧も高くなった。
仲間の前では「やらんばならない」と意気盛んに叫んではみるものの、私だってこの先いったいどうなるのか、という不安は常にかかえている。 新潟で同じ医者仲間にコテンパンにやられ、職を失った苦い記憶はなまなましかった。
「このままでは、また同じように潰されてしまう。 せっかく人を治す理論が見つかっても、闇に葬られては意味がない。
早くもっと多くの人に伝えねば」と、先を急ぐ気持ちに加え、さらに、新しいことを始めたことによる家族や身近な人との乳蝶もある。 もともと、私は「俺はやるぞ、ついてこい」というタイプで、周りとの駆け引きやら圧力の中で耐え抜くのは苦手な方だ。
だからこそ、この状況は、自分で感じている以上に、ストレスがかかっていたのではないかと思う。 そんななか、妻にはよく、「血糖値も血圧も、このままの数字じゃ危険よ◎お願いだから薬を飲んでちょうだい」と言われていた。
けれども、「俺が薬を飲んでどうする」といって頑なに拒んでいた。 薬のいらない医療を目指す者が、たとえどんな理由があろうとも薬に頼ってはいけない。
もはや意地か信念かよくわからない心境であったた。
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医者の集まりに顔を出しても、投げかけられる視線は冷たく、「先生も物好きだね」と声をかけられるのがせいぜいである。 製薬会社のかっての担当者など、見向きもしない。
みかねた妻が、私を自分の経営する医院に入れてくれた。 しかも、それまでは彼女が父から継いだ旧姓のまま「 M 医院」だったのを「 H 医院」と改名までしてくれたのだから、頭が上がらない。
また、新潟では、医者の間からも、「 HLA 理論」をもっと知りたいという声が聞かれるようになった。 これを希望に、妻の医院の片隅で、以前は看護師さんたちの休憩室だった三畳ほどの場所をもらって治療を続けていた。
冒頭の話は、そんな折に持ち上がったものだった。 東京には、私の治療や「 HLA 理論」に興味を持って集う、仲間の医師たちもいる!たくさんの患者さんが待ってくれている!そう思うと、いてもたってもいられず、東京行きを快諾した。
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前日も、翌日も新潟での治療は続けていた。 外科医をしていたころとは違って、自らの手で患者さんに針を指していく治療というのは、相当な体力を使う。
しかも、治療に見える患者さんはガンをはじめとした難病の方ばかりで、いろんな意味でものすごいエネルギーは必要だ。 くたびれないと言えば、ウソになる。
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「やらんばならない」東京の診療所には、薬に頼らない医療を目指す医師がどんどん集まるようになってきた。 N 大学の医学部を出てからF・喜多方の病院で産婦人科医を務めていたKさん。
「でも、私は H 先生とは違って」「しかし、この線はここで終わって」と言い訳が多い。 そこで私は「でもしか先生」と彼に命名し、ことあるごとに彼が「でも……」と始めると、「ほらまた、でもしか先生が出たぞ」などと言ってからかっていた。
治療後のささやかな酒席ともなれば、この「でもしか先生」をはじめ、皮層科出身の医師、神経内科出身の医師など、さまざまな医師たちと口角泡を飛ばして、これか産婦人科医ではあるが、ややぶきっちょな彼は当初、なかなか治療成果が上がらなかった。 私が、「もっと患者さんの体を真剣に見ろ、本気になれば体が教えてくれるんだから」と言うと、君という医師も来ていた。
彼に刺絡療法の話をすると、興味を持って乗ってきたのである。 「結局、いまの医学では治らない。
だから患者さんだって、治してくれる医者を求めて俺たちのところに来るんだ」「だから、 HLA 理論を証明するためにデータを出してください、先生」「データはあるじゃないか、どんどんよくなっていく患者さんがその証拠だろう」「だけど先生、私だって一生懸命やっているけど、なかなか先生みたいに患者さんがよくならないですよ」「うるさい、お前は気合が足りないんだ、気合が」「気合だとか、線が見えるとかだけじゃ、今の医学には相手にされないでしょう。 もっと万人が納得する形に持っていかないと」「とにかく、俺たちはやらんばならない。
医学はこれから変わるんだ」とまあ、こういった具合で話は出たり入ったりする。 最後に「やらんばならなどと言うのは、必ず私なのだが……。
週一日の東京通い、残り五日は新潟で治療、というペースが次第にでき上がっていった。 このころから、私の体重はめきめきと増えていった。
運動量が減り、その割りにお酒を飲むペースはまったく減らなかったためかもしれない。 もともと高めだった血糖値や血圧も高くなった。
仲間の前では「やらんばならない」と意気盛んに叫んではみるものの、私だってこの先いったいどうなるのか、という不安は常にかかえている。 新潟で同じ医者仲間にコテンパンにやられ、職を失った苦い記憶はなまなましかった。
「このままでは、また同じように潰されてしまう。 せっかく人を治す理論が見つかっても、闇に葬られては意味がない。
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